こんにちは。
前回、「キリスト教の国教化」を行なった皇帝として
テオドシウス帝が出てきましたが、この皇帝の時代が、
一つの「ローマ帝国」として存在した最後となります。
当時、西の皇帝だったウァレンティアヌス2世が392年に死去すると、
東西ローマ帝国で皇帝はテオドシウスしかいなくなります。
そして、394年に簒奪者エウゲニウスを戦いで破り、
名実ともに、唯一の皇帝となります。
エウゲニウスは帝位簒奪者で、帝位を僭称していました。
しかし、テオドシウスは翌395年に亡くなってしまいます。
その際、2人の息子(アルカディウスとホノリウス)に、
それぞれコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国と、
ミラノを首都とする西ローマ帝国の皇帝の位を譲り、
それ以降、ローマ帝国が再び一つになることはありませんでした。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「テオドシウス」「エウゲニウス」の項
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2008/07/01 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
こんにちは。
前回は、「背教者」と言われたユリアヌスについてでしたが、
今回は、キリスト教を「国教」としたテオドシウス帝についてです。
ローマ帝国は4世紀末にキリスト教を「国教」と定めますが、
今回はその経緯をたどってみたいと思います。
4世紀後半に皇帝を務めたテオドシウス帝は、
379年の冬に大病を患った際、
キリスト教の三位一体派の司教から洗礼を受けます。
そして、380年には、キリスト教の教理に関することは、
当時、三位一体派だったローマとアレクサンドリアの
司教の意見を第一にするという勅令を発しています。
さらに381年にはキリスト教以外の神に捧げる犠牲を禁じ、
「誰も、聖域に行くことはなく、寺院を歩いて通り抜け、
人の労働で作成された像を見てはならない」と定めます。
やがてテオドシウスは三位一体派の異教や異端に対する
攻撃を支持するようになります。
388年には、元老院議員に対し、古代ローマ宗教の廃絶を求める
決議を提起し、元老院側はほぼ全会一致で賛成します。
これにより、キリスト教(三位一体派)は、事実上、
ローマ帝国の国教となります。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「テオドシウス」の項
一般的には、392年が「キリスト教の国教化」ですが、
すでにその前から、国教としての扱いを受けていた、
というよりも、他の宗教・宗派が弾圧されていたんですね。
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2008/06/22 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:2
こんにちは。
前回はユリアヌスの生い立ちについてでした。
今回は、彼が皇帝となってからのお話です。
361年、コンスタンティウス2世が急死し、
しばらくして363年、ユリアヌスが単独皇帝として就任します。
皇帝となってから、キリスト教徒に与えられていた特権を廃止し、
その他の宗教を保護することで、その復興を目指します。
例えば、ユダヤ教の勢力強化のために、
エルサレム神殿の再建許可などを行ないます。
そのため、キリスト教徒から「背教者」と呼ばれ、
「異教の復興を企てた」と語られています。
しかし、彼は元からキリスト教を信教としていなかったため、
「背教」にはあたらないという見方もあります。
さらに、彼の行なったことは、特定の宗教に関わらず、
帝国民の信教の自由を保障した「ミラノ勅令」に依拠しており、
キリスト教徒に対して直接的な迫害をしたわけでもありません。
そのため、近年では、彼のこの政策は、
諸宗教の勢力均衡を図ったもので、
キリスト教のみを優遇した他の皇帝よりも、
賢明であったとの評価もあります。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ミラノ勅令」「ユリアヌス」の項
実は私も調べるまでは、教科書通り、
「ユリアヌス=背教者」とのイメージを持っていました。
でも、それはキリスト教側で作られたイメージだったように思います。
歴史を見るのには、一面からではなく、
多角的な見方が大事ですね。
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2008/06/13 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
こんにちは。
前回は、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した、
「ミラノ勅令」についてでした。
さて今回は、そこから少しあとの時代のお話です。
コンスタンティヌスの死後、しばらくして、
甥にあたるユリアヌスが皇帝となります。
彼が皇帝に就任するまでには、複雑な経緯があります。
まず、猜疑心の強い先代のコンスタンティウス2世により、
幼少だったユリアヌスとその兄以外の家族全員を殺され、
軟禁状態で養育されます。
コンスタンティウス2世はコンスタンティヌスの子。
その軟禁生活中に、キリスト教会の聖書の朗読者となったり、
同時に、ギリシア・ローマの古典や神話にも触れます。
さらに、別の場所へ移された時には、ギリシア哲学も学びます。
これらの経験から、キリスト教の優越性を唱える信徒や、
伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感じるようになったと言われます。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ミラノ勅令」「ユリアヌス」の項
今回は、ユリアヌスの生い立ちについてでした。
当時は、キリスト教が勢力を拡大してきていて、
それまでの宗教と肩を並べるほどになっていた頃です。
そういったことが、ユリアヌスのその後に
どのように影響していったのでしょう?
それはまた次回・・・
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2008/06/04 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
こんにちは。
今日は番外編として、「今日は何の日」から。
今日、6月2日は、現代イタリアにとっては大きな転換点となった日です。
それは、「王制廃止」が決定された国民投票。
この投票で、それまでの王制から、「共和国制」樹立が決定されます。
投票結果はわずかな差でした。
この結果、国王ウンベルト2世は他国に亡命します。
「48年に施行された新憲法で旧国王夫妻と王家の直系男子は帰国が禁止」
となりますが、2002年にそれを決めた補則が廃止され、
旧王族の入国が許されたのです。
60年ほど前までイタリアは「王国」だったんですねぇ。
因に、記事ネタ元はここです。
「【20世紀のきょう】イタリアで王制めぐり国民投票(1946・6・2)」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080602/acd0806020307002-n1.htm
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2008/06/02 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:1
こんにちは。
前回はディオクレティアヌス帝の「四分割統治」についてでした。
さて今回は、そのディオクレティアヌス帝の統治後の混乱を収めた、
コンスタンティヌス帝の「キリスト教公認」についてです。
彼は副帝だった父コンスタンティウス1世の跡を受けて帝位に就き、
やがて対立する皇帝を破り、単独皇帝として帝国の再統一を果たします。
その過程で、313年に東のリキニウス帝と連名で「ミラノ勅令」を発して、
帝国内のキリスト教をはじめとする宗教の寛容政策を取ります。
その後、それを破ってキリスト教を迫害したリキニウス帝と対立し、
キリスト教を認めていたコンスタンティヌス帝が戦いを制し、
ローマ帝国で唯一の皇帝となります。
そして、彼は死の少し前にキリスト教の洗礼を受け、
その死後、神格化され、聖使徒教会に埋葬されました。
コンスタンティヌスは「ミラノ勅令」でキリスト教を公認し、
ローマ帝国初のキリスト教皇帝として有名ですが、
実際はキリスト教の持つ組織力に目を付け、
それを帝国の統治に利用しようと考えていたからもしれませんね。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「コンスタンティヌス」「ミラノ勅令」の項
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2008/05/26 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
こんにちは。
前回は「軍人皇帝時代」についてでした。
さて、今回はそれをおさめた「ディオクレティアヌス」についてです。
親衛隊長官だったディオクレスが軍に推されて即位し、
284年、「ディオクレティアヌス」と称して帝位に就きます。
当時、広大なローマ帝国を一人で統治するのは困難と考えられ、
彼は軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として迎えます。
そして、彼を西方の統治にあたらせ、自身は東方を治めます。
さらに292年、それぞれ「副帝(カエサル)」を任命し、
自分たちは「正帝(アウグストゥス)」として、
この4人で帝国を分割統治する体制を築きます。
これを「四分割統治」と言います。
しかし、この分割統治は、政治手腕に長けた
ディオクレティアヌスに依るところが大きかったため、
305年に彼が引退するとその均衡が崩れ、再び帝国は混乱します。
因に彼の治世には、キリスト教徒が増加し、
国家に反抗する一部のキリスト教徒たちを処刑していて、
それをキリスト教側からは「大迫害」と言われています。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ディオクレティアヌス」の項
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2008/05/17 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
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前回は「カラカラ浴場」についてでした。
さて、今回はもう少し時代が経ってからのお話です。
皇帝が乱立した軍人皇帝時代(235〜284年)は、
「3世紀の危機」と言われた時代の前半にあたります。
この33年間に14人もの皇帝が乱立したため、
この時期を境に皇帝の権威が失墜したと言われます。
このような事態になったり原因はいくつかありますが、
そのうちの一つに、主に軍の軍事力を背景とした、
一種の「クーデター」による皇帝擁立がされていたことが挙げられます。
そのため、「軍人」から選ばれて「皇帝」となるので、
「軍人皇帝」と言われるわけです。
軍人皇帝たちの支持母体は、軍を構成する兵士たちですが、
彼らが国家防衛の前線に立って防衛にあたっているため、
国家防衛を皇帝に委ねる仕組みになっている以上、
元老院も、軍隊の推挙を受けた人物を追認するしかなかったと考えられます。
軍人皇帝が乱立すると、帝位交替の度に国境防衛に空白が生じ、
それに乗じた周辺民族の侵入を許し、
結果としてローマ帝国の弱体化を招くようになります。
また、それぞれの前線において軍人皇帝を擁立し、
内乱状態になってしまうこともありました。
こうした混乱したローマ帝国を救ったのが、
親衛隊長官だったディオクレス、のちのディオクレティアヌスです。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「軍人皇帝」の項
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2008/05/08 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
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前回は「カラカラ帝」についてでした。
今回はそのからから帝の功績の1つで、
比較的日本人にも馴染みがある「カラカラ浴場」についてです。
カラカラ帝の功績でもう一つ大きなものが、
212年から216年にかけて
「カラカラ浴場」を建築したことです。
この遺跡は現在も観光地として有名ですが、
古代ローマの公衆浴場です。
225m×185m、高さが約38.5mほどですから、
かなりの大浴場ですよね。
ただ、いわゆる日本の昔ながらの銭湯とは少し違い、
公立図書館の建物群の中の、付属建造物だったようです。
中には「冷室」「温室」「熱室」「ジム」などがあり、
娯楽性の高いレジャー施設のようです。
現代日本だとスーパー銭湯のような感じでしょうかねぇ。
古代ローマの人たちも裸の付き合いをしていたんですね。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「カラカラ浴場」の項
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2008/04/29 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:1
こんにちは。
前回は五賢帝時代の最後を書きました。
今回はそこから少し時代が経って、
3世紀に現れた「カラカラ帝」についてです。
前皇帝セウェルスが211年に亡くなると、
彼の妻ユリア・ドムナの息子である、
カラカラとゲタの兄弟が共同統治の皇帝となります。
しかし、この兄弟は仲が悪く、
やがてカラカラ帝によりゲタは母親の目前で殺害されます。
他にも、カラカラ帝は市民を虐殺したり、
軍事的な独裁の強化も行なったため、
市民からの評価は低かったようです。
その一方で、兵士と共に徒歩で行軍したり、
土木作業にも加わったり、兵士の給与を上げるなどしたため、
兵士からは人気があったようです。
また、彼の功績としては、212年に発布された
「アントニヌス勅令」があります。
これは税収入の増加を狙い、
全属州民に「ローマ市民権」を付与するというものでした。
しかし、それまでは属州民たちはローマ市民権を得るためには
ローマ軍団に入って軍役を果たさなければならなかったのが、
このアントニヌス勅令により、既得権となってしまったため、
ローマ軍の質が低下し、ひいては国防力も下がったと言われます。
因に、「カラカラ帝」というのは、
彼の愛用した外套に由来する通称で、
本名はマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス、
と言います。
ただ、これだと他の皇帝と混同しやすいので、
「カラカラ帝」と呼ぶのが普通のようです。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「カラカラ」「プブリウス・セプティミウス・ゲタ」の項
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2008/04/20 イタリアの歴史 トラックバック:1 コメント:0
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