こんにちは。
前回まで「五賢帝時代」の前・中期を書きました。
今回はその最後です。
五賢帝時代最後の皇帝となったのが、
マルクス・アウレリウス・アントニヌスです。
彼には同じく先帝アントニヌスの養子となった共同皇帝の
ルキウス・ウェルスがいました。
130年に生まれ、詩作と弁論を好んだルキウスは、
154年に32歳の最低年齢を大幅に下回り執政官となります。
161年にマルクス・アウレリウスとともに執政官を務めますが、
この年に先帝アントニヌス・ピウスが亡くなり、
マルクス・アウレリウスが皇帝の座を継ぎ、
ルキウスが共同皇帝となります。
2人は同等の権利を有していましたが、
実際の政務は、121年生まれで年長の
マルクス・アウレリウスが指導的な立場を握っていました。
また、ルキウスは翌年から166年までパルティア戦に従事し、
2年ほどローマで享楽的な生活を続けた後、
169年、ゲルマン人の支族の来襲の迎撃のため出陣します。
同じ年、マルクス・アウレリウスと戦場からローマへ帰還する道中で、
食中毒の症状を呈して床につき、数日後に亡くなります。
この後、マルクス・アウレリウスが
五賢帝時代最後の皇帝を単独で務めます。
共同皇帝だったルキウス・ウェルスが亡くなった後、
マルクス・アウレリウスが単独皇帝となります。
先帝アントニヌス・ピウスが対外政策に力を入れなかったため、
蛮族の侵入や、パルティアの攻撃など、
数々の難問に直面しますが、その問題に果敢に対処しました。
それまでの五賢帝時代は、優れた者を後継者として養子にし、
帝位を継承させるという慣習が存在しましたが、
彼は実子のコンモドゥスを後継者とし、
ここに五賢帝時代は終わりを告げます。
もっとも、それまでの皇帝には法律上の結婚に
基づく実子がいなかったため、
そのような慣習が無かったという説もあるようです。
そして、皇帝たちは後継者を選ぶ際には、
元老院の承認を必要とされ、
アウレリウス帝も実子を選ぶ際には承認を得ています。
一方、アウレリウス帝は「哲人皇帝」と呼ばれ、
日々の思索と哲学を記した『自省禄』を著しています。
また、帝国の安定のため、
当時衰えていた伝統の神々の祭祀を復興して、
帝国の精神的紐帯とすることを図ります。
そのため、多神教の礼拝を拒んだキリスト教徒を、
帝国の安定を危うくする存在として迫害しました。
因に、中国の後漢の史書『後漢書』西域列伝の大秦国の記事に、
「大秦王安敦」の使者がきたとの記述がありますが、
これがマルクス・アウレリウス・アントニヌスとされています。
※当時の中国ではローマ帝国のことを
「大秦国」と表記していました。
すでに2世紀頃には東西の大国同士で
使者の往来があったんですね!
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「五賢帝」「アントニヌス・ピウス」「ルキウス・ウェルス」
「マルクス・アウレリウス」の項
最後に実子を後継者としなければ、
本当に素晴らしい皇帝だったと思うのですが・・・
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2008/04/11 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
こんにちは。
前回は「五賢帝時代」の前半でした。
今回は、その中盤の時代についてです。
先代のトラヤヌス帝は、たくましい若者たちを随行させていたことが
伝わっているように、男色を好んだため、皇帝位は養子に迎えた
従弟で同郷のハドリアヌスが継ぎます。
ハドリアヌスが継承した時には帝国は最大領域となっていて、
そのために領土の防衛や、各地の反乱への対処など、
先帝の積極策から一転、帝国の消極的な維持に努めたようです。
有名な「ハドリアヌスの長城」もこれを象徴していますね。
官僚機構の整備などの行政改革や、帝国内の視察、
軍紀の改正による軍内部の改革なども行います。
ハドリアヌス自身が用兵術に優れていたこともあり、
ローマ軍は連戦連勝を重ね、軍隊内では一兵卒と変わらぬ生活をし、
戦争では先頭に立って指揮をとったため、
士気の低下にはつながらなかったようです。
また、文化面では、118年にパンテオン神殿の再建に着手しています。
彼も、病床でアントニヌスを養子にし、後継者としています。
その先帝ハドリアヌスの養子となり後継者となったのが、
アントニヌス・ピウスです。
ピウスは元老院から贈られた「敬虔な」という意味の尊称。
ハドリアヌスの信任が厚く、要職を歴任した後、
早世した後継者の後に、妻の甥の遺児2人を養子とすることでした。
この2人は後に皇帝となります。
138年7月11日にハドリアヌスの後を継いで即位します。
このハドリアヌスは長くローマを不在にしたため、
元老院から不満の声が上がり、記録抹消刑に処されるところを、
アントニヌスが必死に止めたというのが、彼の最初の実績です。
ピウスの尊称が贈られたのもその高潔な態度からと言われます。
彼は、先帝への不満を反面教師とし、
ローマを不在にすることは無かったのですが、
それが周辺蛮族の発展を許し、後世への禍根を残したと言えます。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「五賢帝」「ハドリアヌス」「アントニヌス・ピウス」の項
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2008/04/02 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:2
こんにちは。
前回は「暴君ネロ」についてでした。
今回は、そこから少し時代が経った頃、
いわゆる「五賢帝時代」についてです。
皇帝ネロの後、ローマは「内乱期」を経て、
「五賢帝」と称される皇帝が相次いで統治する時代になりました。
前王朝であるフラウィウス朝最後の皇帝ドミティアヌスが暗殺されると、
ネルウァ(ネルヴァ)が96年に新皇帝に擁立され、元老院から承認されます。
当時、高齢で病気であり、子どももいなく、
ローマ軍から積極的に支持されなかったことなどから、
ゲルマニア総督で、軍の人気が高かった
トラヤヌスを養子として、後継者に指名します。
これ以降、養子の形で帝位を後継した5人の皇帝を「五賢帝」と呼びます。
しかし、2年ほどでネルヴァは亡くなり、トラヤヌスが皇帝となります。
彼は属州ヒスパニア(現スペインのイタリカ生まれ)の出身者として、
初めて皇帝位に就いた人物でした。
彼は外征に積極的で、ドナウ川を越え、ダキア(現ルーマニア)を征服し、
一時はメソポタミア地方にまでその支配力を伸ばし、
ローマ帝国の版図は彼の時代に最大となりました。
東はメソポタミア、西はイベリア半島や北西アフリカ、
南は北アフリカ地中海沿岸一帯からエジプト南部、
北はブリテン東南部まで及びました。
内政においてもネルヴァと同様、元老院との協調に努めました。
公共事業の振興や、税負担の軽減などの行政改革を行うなど、
帝国の繁栄に尽力した人物と言えます。
これらの内政・外征の功績を称えて、
元老院から「至高の皇帝(Optimus Princeps)」の称号も贈られ、
それは、当時鋳造された貨幣にも刻まれています。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「五賢帝」「ネルウァ」「トラヤヌス」の項
この頃になると、いわゆる「ローマ帝国」が出来上がり、
繁栄を極めつつある頃です。
皇帝も優秀な人物に引き継がれていて、
まさに「賢帝」と呼ぶに値すると思います。
もちろん人間ですから、良い面も悪い面もありますが、
巨大な国家を一人で統治するわけですから、
並大抵の事じゃありませんよね。
次回は、五賢帝時代の後半についてです。
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2008/03/24 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:2
こんにちは。
今回は、ローマ帝国の初期、第5代皇帝となった「ネロ」についてです。
彼は、当初は名君と言われていました。
それは家庭教師でもあり、高名な哲学者セネカや、
親衛隊長官の補佐を受けてのものでした。
しかし、数年後にはその善政が崩れ始めます。
原因の1つとして考えられるのは、
側近と彼の母親アグリッピナとの緊張関係。
もともとネロが皇帝に就いたのも、
母親の手助けがあったからでした。
ネロが席に着く時に彼女が隣に座っていたのを、
セネカが諌めたりしています。
次第にネロも母親の干渉を疎ましく思うようになり、
妻オクタウィアと離縁し、再婚しようとした際に、
彼女と対立し、殺害してしまいます。
その後、ネロは妻オクタウィアと離縁し、再婚します。
オクタウィアも62年に自殺を強要されます。
この頃には2度目の横領の咎で告発されたセネカが、
ネロに引退を申し出ていますが、
彼も65年にネロ暗殺の陰謀に加担したとして、
自殺を命じられます。
こうした経緯があった後、64年にローマで大火災が起きます。
この火災によりローマ市内のほとんどを焼き尽くされ、
多数の死傷者や被災者が出ました。
ネロはこの火災に対して真剣に対処しましたが、
復興の際に、広大な黄金宮殿の建設を行ったため、
その用地確保のために放火したという噂が絶えませんでした。
さらに、ネロの命によって放火されたとの流言に対しては、
当時の新興宗教であったキリスト教の信徒を放火犯として処刑します。
この処刑が、ローマ帝国による最初のキリスト教弾圧とされ、
キリスト教世界における、ネロの「暴君」としてのイメージが
構築されていくことにつながっていきます。
こういったことから、次第にネロは暴君と見られるようになります。
そして68年、属州で反乱が勃発し、
ついには元老院で「国家の敵」としての宣告を受け、
ネロは自殺します。
彼の死によってユリウス・クラウディウス朝は断絶し、
ローマは戦乱の時期を迎えます。
最後にネロの人となりを表すエピソードを簡単にご紹介します。
・オリンピア競技に出場し、大胆な不正を行い優勝。
・かなりの宝石マニアであったらしく、
おびただしい宝石で身の回りを飾り立てる趣味があったようです。
・無類の鳥類マニアでもあり、
特にオウムやインコの類いに目がなかったようです。
飽きてしまうと殺し、食べてしまったようですが。。。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ネロ」の項
とかく悪く言われがちな皇帝ネロですが、
生い立ちなどを考えると、一般人には分からない、
皇帝なりの苦悩があったのかもしれませんね。
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2008/03/15 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:2
こんにちは。
前回まではカエサルについてのエピソードをご紹介しました。
今回は、「ローマ帝国の最初の皇帝アウグストゥス」についてです。
帝政ローマの開始時期については諸説ありますが、
ともかくアウグストゥスは実質的なローマの唯一の統治者となります。
そして彼の後継者たちもそれにならい、
代々「アウグストゥス」の称号を名乗ることで、
「帝政」は既成事実となっていきました。
因に、のちに「アウグストゥス」は、
「皇帝」を示す称号の一つになります。
その後、彼はカエサルの暗殺を教訓として、
建前上は徹底して権力者であることを避けます。
あくまでも表面上は元老院を重視しているように見せ、
自分が行っていることの真の狙い(帝政の確立)から、
目をそらせるような政策を展開していきます。
因に、「8月の英語名Augustは、
ローマ皇帝Augustus(アウグストゥス)に由来」
するそうですよ!
それほど偉大な存在であることが分かりますね。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「アウグストゥス」の項
紀元2年、アウグストゥスは元老院から
「国家の父」(pater patiae)の称号が与えられます。
ここにアウグストゥスは皇帝としての権威を確立したのです。
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2008/03/06 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:1
こんにちは。
前回から引き続き、カエサルにまつわるお話を。
共和政の改革に着手したカエサルは、
まず、元老院への権力集中を防ぐことを考え、
そのために属州民に議席を与えます。
ついで、民会や護民官を単なる追認機関とすることで、
自ら就任した終身独裁官(ディクタトル)に権力を集中させます。
この終身独裁官に権力を集中させる仕組みは、
「元首制」として、後のオクタヴィアヌスに継承され、
「帝政ローマ」誕生の基礎となります。
しかし、こうしたカエサルの権力集中に
危機感を抱く者たちがいました。
それがかねてから元老院議員たちに
カエサルへの陰謀計画への加担を依頼されていたブルートゥスらです。
そしてついに前44年3月15日、カエサルは暗殺されます。
その際に発したとされる有名な言葉、
「ブルートゥス、お前もか!(「Et tu,Brute!」)」ですが、
これはイギリスのシェークスピアの戯曲
『ジュリアス・シーザー』の中のセリフです。
実際は言っていないという説もあるようです。
通常、これは暗殺者の1人マルクス・ユニウス・ブルートゥスを
指すとされていますが、もう1人のブルートゥス、
デキムス・ユニウス・ブルートゥスであったという指摘があるようです。
彼はカエサル配下の有力な将軍で、
相続順位第2位に指名されていたほどの人物でした。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ガイウス・ユリウス・カエサル」の項
有名なあのセリフは、もしカエサルが本当に発していたとしたら、
腹心中の腹心に裏切られたと分かった時に、
発した言葉なのかも知れませんね。
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2008/02/26 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:1
こんにちは。
イタリアの歴史の中での有名人、
カエサルの名言の中で、
「来た、見た、勝った」というのがあります。
今日はその言葉について振り返ってみます。
エジプトと友好関係に入った後、
小アジアへ派遣していたカルウィヌスが、
ポントス王国のファルナケス2世に敗れたという報告が
カエサルのもとに届きます。
そこでカエサルは、前47年、エジプトを出発し、
ゼラの戦いでファルナケスを破ります。
この時に、ローマにいる腹心ガイウス・マウィウスに送った報告が、
有名な「来た、見た、勝った(Veni vidi vici)」です。
※出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
その後、地中海世界を平定してローマに凱旋したカエサルは、
市民に熱狂的に歓迎され、任期5年の独裁官に任命され、
ローマ世界の最高権力者となったのです。
そうして支配権を確かなものとしたカエサルは、
共和政の改革に着手するのです。
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2008/02/17 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:2
こんにちは。
今回は前回に続き、カエサルについてです。
有名な「賽は投げられた!」という言葉、
皆さんもどこかで耳にした事があると思います。
その言葉がどのようにして発せられたのか?
前49年、元老院はカエサルのガリア属州総督の解任と、
本国召還を命じる最終勧告を発します。(事実上の非常事態宣言)
それに対し、カエサルは同志の護民官がローマを追われたことを名目にし、
ローマ法により軍を率いて渡ってはならないとされていた
ルビコン川を越えます。
この時にカエサルは、有名な言葉、
「賽は投げられた」を残します。
因に、一般的な全文は、
「ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければわが破滅。
(兵士たちを振り返り)進もう!神々の待つところへ!
我々を侮辱した敵の待つところへ!賽は投げられた!」です。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ヤクタ・アーレア・エスト」の項より
ルビコン川を渡ったカエサル軍の行動は素早く、
対するポンペイウスはローマにいたために軍を編成することが出来ず、
ローマおよびイタリア半島を放棄します。
ポンペイウスが自身の勢力基盤であるギリシアで、
軍備を整えることにすると、
多くの元老院議員が彼に従いローマを出て、ギリシアへ去りました。
こうしてカエサルはローマの実質的な支配者となったのです。
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2008/02/08 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:2
こんばんは。
先日、テレビ番組「世界・ふしぎ発見!」で、
「古代史最大の英雄・カエサルの素顔」というのをやっていました。
ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、
今回から数回に分けて、カエサルについて書こうと思います。
時は、前60年。
スパルタクスの反乱を鎮圧したマルクス・リキニウス・クラッスス、
執政官を目指すガイウス・ユリウス・カエサル、
そして元老院の対応に不満を持つグナエウス・ポンペイウス・マグヌス、
この3人が第一回三頭政治を始めます。
当時、カエサルは民衆から絶大な支持を得ており、
ポンペイウスは総司令官を経験したことから軍事力を背景に持ち、
そこに経済力があるクラッススが加わったのです。
この3人が手を組むことにより、
当時、強大な政治力があった元老院に
対抗しうる勢力を形成できたわけです。
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2008/01/30 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
こんばんは。
これからイタリア留学しようと思ったら、
やっぱりイタリアの歴史を知っておきたいですよね?
そこで、今回から、イタリアの歴史を少しずつ紐解いていきます。
あまり古い時代からだと長くなってしまうので、
ローマ帝国時代から始めようと思います。
そう言えば、今年の日本はとても寒いですが、
この時期、お風呂が恋しくなりますね。
お風呂って日本人ならではって感じですが、
ローマ人もお風呂好きだったってご存知ですか?
日本とはちょっと違いますが、
ローマ時代にも「大浴場」がありました。
有名な遺跡としては「カラカラ浴場」があります。
この「カラカラ浴場」は、
カラカラ帝が212年から216年にかけて
建てさせたもの。
この遺跡は現在も観光地として有名ですが、
古代ローマの公衆浴場です。
225m×185m、高さが約38.5mほどですから、
かなりの大浴場ですよね。
ただ、いわゆる日本の昔ながらの銭湯とは少し違い、
公立図書館の建物群の中の、付属建造物だったようです。
中には「冷室」「温室」「熱室」「ジム」などがあり、
娯楽性の高いレジャー施設のようです。
現代日本だとスーパー銭湯のような感じでしょうかねぇ。
古代ローマの人たちも裸の付き合いをしていたんですね。
参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「カラカラ浴場」の項
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2008/01/21 イタリアの歴史 トラックバック:0 コメント:0
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